あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネの福音書1516節)

1.申命記71節ー8
2. サムエル記第一166節ー12
3.エレミヤ書14節ー10
4.エペソ人への手紙13節ー14

ヘブル人への手紙122節に「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなさい。」と、生まれつき足のなえていた人がいやされペテロとヨハネとともに歩いたり、はねたりしながら神を讃美しているのを見た人々にペテロが神が死者の中からよみがえらせたイエス·キリストの証人であることを話されるとともに、「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(使徒の働き31節ー16節)」と、今日の聖句が「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び任命したのです。」と語っているように、信仰は、主によって与えられたのでした。その点が、宗教と神の世界と大きく異なる点ではないでしょうか。しかもイエス様は「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と何のために選ばれているのかを語っています。パウロが「すべての人のために、また王とすべて高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい(テモテへの手紙第一21節)」とペテロが「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(ペテロの手紙第一47節)」と勧めているように、ユダヤ人同様、主に選ばれた存在であること、主の御名をもって祈る特権が与えられていることを忘れずに、主の御名で石破総理はじめ人々のために祈り、豊かな祈りの実をつけるようにしようではありませんか。