私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4章10節)

1.ヨハネの福音書3章16節ー18節
2.ヨハネの福音書15章9節ー15節
3.ローマ人への手紙5章6節ー11節
4.ローマ人への手紙7章18節ー8章3節

イエス様はユダがイエス様のことを売り渡すこと、ペテロが三度知らないということ、「私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」と告白しても「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしひとりを残す時が来ます。いや、すでに来ています。」と仰せられたように(ヨハネの福音書16章30節ー31節)、弟子たちひとりひとりをよくご存知でしたのに、弟子たちの足を洗って愛を残るところなく示されただけでなく(ヨハネの福音書13章1節ー5節)、イエス様は罪人バラバの代わりに十字架につけられたにもかかわらず、人々のためにとりなして祈られ神の愛を示されたのでした。その祈りを聞いた人々の中で十字架にかけられた犯罪人のひとりはそれまでは人々と同じようにイエス様のことをののしったのですが(マルコの福音書15章32節)、続けて悪口言っているもうひとりの犯罪人に「おまえは神を恐れないのか。お前も同じお刑罰を受けているではないか。」と嗜めてからイエス様に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と態度を変えたのは神の愛を見たからではないでしょうか(ルカの福音書23章34節ー43節)。今日の聖句が「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と語っているように神の愛を忘れないようにしようではありませんか。