キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル人への手紙9章28節)
1.マタイの福音書24章3節ー44節
2. 使徒の働き1章3節ー11節
3.ペテロの手紙第二3章3節ー14節
4.黙示録22章12節ー21節
弟子たちが死からよみがえられたイエス様に「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と尋ねられたように、イスラエルの民はメシアをローマ帝国の圧政から救う方として待ち望んでいたので、ヨハネが「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネの福音書1章10節ー13節)」と語っているようにイエス様をメシアと考えられず十字架に架けてしまったのですが、それは全ての人の救いの道が開かれたのでしたが、主の再臨は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自分をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」と語っているように「王の王。主の主」とイスラエルの民が待ち望んでいた姿で再臨されるのです。ひとりでも多くの方が主を待ち望むように祈ろうではありませんか。