ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(コリント人への手紙第一1章22節ー24節)
1.使徒の働き3章1 節ー16節
2. コリント人への手紙2章7節ー12節
3.コリント人への手紙第一15章3節ー20節及51節ー57節
4.エペソ人への手紙1章17節ー21節
イエス様は弟子たちにご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを話されても、ペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」とイエス様をいさめるようなことをしましたが、イエス様が仰せられたように、死からよみがえられたイエス様にお会いしたことによって神の力を見て生ける希望を持つ者となり、聖霊に満たされたペテロは、パウロが「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」と語っているように、生まれながら足のなえた人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス·キリストの名によって歩きなさい。」と言って彼の右手を取って立たせると彼は歩き出し、神を賛美しつつ宮に入ったのでした。神は、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはできません。」と仰せられたように、人の知恵では理解できない罪や死に勝利す力と道を御子をお遣わしになり成就されたのでした。パウロが「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ人への手紙4章13節)」と語っているように、キリストがどのような方なのかを忘れないようにしようではありませんか。