ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救い主であられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。(詩篇68篇19節ー20節)
1.ヨハネの福音書5章19節ー24節
2.使徒の働き4章5節ー12節
3.ローマ人への手紙6章17節ー23節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節
ダビデは「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救い主であられる神。神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。」と、主は毎日私たちの重荷を負ってくださるだけでなく、イエス様がマルタに「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。(ヨハネの福音書11章25節ー26節)」と仰せられたように、罪がもたらす永遠の死である地獄から免れていることを語るとともに「私の主、私の神」と個人的な関係を語っています。ダビデは多くの過ちや罪を犯しましたが、それを主に告白することによって神の赦し、神の恵みを知る者となり、主にあって喜び、楽しむことを勧めているように(詩篇32篇1節ー11節)、パウロも「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことで、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト·イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。(テモテへの手紙第一1章13節ー14節)」と告白しています。彼が過去の過ちを思うと宣教の働きにブレーキがかかってしまうのではないでしょうか。パウロは主のあわれみを知る者、恵みを無駄にしないように生きられました。重荷には様々なものがありますが、問題だけでなく、過去の悔いるような過ち(ことばや行い)が重くのしかかってしまうことがあるのではないでしょうか。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)」と約束しておられます。主は私たちの信仰がなくならないように、罪に定められないようにとりなして祈っていてくださる救い主であることを忘れず、私たちの重荷を主に明け渡し、主を喜んで生きるようにしようではありませんか。