遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかに神はいない。わたしのような神はいない。(イザヤ書46章9節)
1.イザヤ書44章6節ー28節
2.イザヤ書45章1節ー7節
3.使徒の働き17章16節ー31節
4.ローマ人への手紙15章4節ー6節
ヨシュアは民がヨルダン川を渡り終えた時、川底から部族の数に合うように十二個の石を背負って運び、記念碑を建てたのですが、主がどのようなことをされたのかを神がどのような方なのかを後世の民に教えるためでした。ところで今日の聖句は「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかに神はいない。わたしのような神はいない。」と、イザヤ以前の時代のイスラエルの民に対する神の恵みやあわれみ、祝福を思い出すよう勧めているものと思われますが、「遠い大昔」を思うと、創世記1章ー3章において、神が人を創造されたこと、他の被造物と違って人にはいのちの息が吹き込まれたこと、アダムに善悪の知識の木から取って食べると死んでしまうために食べないように警告し、助け手として女性が作られたこと、蛇に化身したサタンが「あなたがたは決して死にません。」と、神の警告を完全に否定し、偽りをもってエバが罪を犯すように仕向けたこと、エバは神が禁じた善悪の知識の木から取って食べ、そばにいたアダムに渡したのでアダムも食べて罪を犯したこと、神はサタンが敗北することを預言され(創世記3章15節)、アダムとエバのために皮の衣を作り着せてくださったこと(創世記3章21節)が書かれています。パウロは「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の教える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(ローマ人への手紙15章4節)」と語っています。私たちの神がどのような方なのかを忘れないようにしようではありませんか。