神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)

1.マタイの福音書5章17節ー20節
2.ルカの福音書23章32節ー43節
3.ローマ人への手紙3章19節ー30節
4.ローマ人への手紙8章33節ー39節

サウロとも呼ばれていたパウロは律法による自分の義に生き、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えて激しい怒りに燃えて、エルサレムだけでなく国外にまで出かけてキリスト者を迫害すしていたのですが、ダマスコへの途上で、イエス様から声をかけられキリスト者となったパウロは、律法による自分の義でなくて、キリストを信じる信仰によって神から与えられる義を知る者となられ(ピリピ人への手紙3章9節)、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と十字架の死の意味を語っています。人はとかくパリサイ人であった時のパウロのように、自分こそ正しい、という思いや考えで生きているのではないでしょうか。ソロモンは「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。(伝道者の書7章16節、口語訳)」と自分の義に生きないように警告しています。自責の念や罪責感に悩まされる時、恵みによって救われ、イエス様が罪に定められないようにとりなしていてくださることを、神の義という立場が与えられていることを思い起こし、神の義の中を歩むようにしようではありませんか。