だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。(ルカの福音書8章18節)
1.ヨハネの福音書5章39節ー47節
2.使徒の働き17章16節ー34節
3.使徒の働き26章1節ー23節
4.ローマ人への手紙11章25節ー32節
律法学者やパリサイ人たちはイエス様を話を聞いていながらも、彼らが待ち望んでいたメシアがイエス様であることを認めず、かえって、ことばのわなにかけようと相談し、ヘロデ党の者たちといっしょに弟子たちをイエス様のもとにやり「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」と尋ねさせるようなことをしたり(マタイの福音書22章15節ー22節)、群衆をあおってイエス様を十字架につけるように扇動するようなことをしたのですが、ピラトが気づいていたように、そこ根底にはねたみ(マタイの福音書27章18節)、すなわち肉の行い(ガラテヤ人への手紙5章21節)があったのでした。イエス様は種蒔きがまいた種は神のことばであることを語るとともに「あかりをつけてから、それを器で隠したり、燭台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」と語ってから「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」と勧告されたのでした。詩篇119篇130節は「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」と語っています。アテネの人々はパウロのメッセージを聞きましたが、信じる人と信じない人がいたのでした。日々、みことばに聞く生活をするように心がけようではありませんか。