狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者は稀です。(マタイの福音書7章13節ー14節)
1.ヨハネの福音書5章24節ー26節
2.ヨハネの福音書10章1節ー9節
3.ヨハネの福音書14章1節ー6節
4.テモテへの手紙第一2章4節ー6節
イエス様は罪人を救うために神でありながら人として御降誕くださったために、キリスト教の教祖のように思われ、富士山の山頂へは色々なルートがあるようにすべての宗教も行き着くところは同じと多くの人たちは考えて、キリスト教という名のもとに宗教の中のひとつと考えがられてしまいがちですが、宗教は人の知恵による哲学の世界であり、信仰はイエス様によって与えられるがゆえに(使徒の働き3章16節、ヘブル人への手紙12章2節)、パウロは偶像で満ちているアテネの人々に信仰のあつい方々と言ったのではなく、「宗教心のあつい方々だと見ております(使徒の働き17章22節)」と語ったのでした。キリスト教は他の宗教を認めないために排他的と考える方がおられますが、箴言14章12節に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」と語っています。イエス様は「狭い門」と「大きい門」、「狭い道」と「広い道」、「いのち」と「滅び」と対比して語っています。イエス様は「私は門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネの福音書10章9節)」と、また「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネの福音書14章6節)」と、何でも信じればよいのではないことを語ったのでした。もとは僧侶であった亀谷凌雲牧師の著書に「仏教からキリスト教」ではなく「仏教からキリストへ」とあるのは、宗教ではないからです。キリスト教に生きるのではなくキリストに、この世の知恵ではなく、神の知恵であるみことばそのものをしっかり握って生きるようにしようではありませんか。