主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない」と。(エレミヤ書16章19節ー20節)

1.イザヤ書46章5節ー11節
2.ローマ人への手紙1章16 節ー25節
3.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
4.ペテロの手紙第一1章 18節ー21節

イスラエルの民はモーセと共に前方には紅海、後方からエジプト軍が迫ってくる中、主は紅海の海水を二つに分けられ民が渡り終えると海水を元に戻されエジプト軍がひとり残らず溺死したのを見て「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」と主をほめたたえたにも関わらず(出エジプト記14章10節ー15章2節)、モーセが山から降りてくるのに手間取っているのを見た民がアロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。」と言ったのでアロンが金の子牛を造り偶像崇拝をしたように(出エジプト記32章1節ー6節)、何度も偶像崇拝を繰り返して罪を犯した結果バビロンの捕囚とされたのですが、民が神がどのような方であるのかを思い起こすとともに、民がバビロンから帰還するのを見て「主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。『私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない』」と、人々が告白することを語っています。パウロも神はすべての名にまさる名をイエス様にお与えになったことを語ってから、「イエスの御名によって、天にあるおの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです(ピリピ人への手紙2章9節ー11節)。」と語っていますが、その時喜ぶ人と髪ならぬものを拝んでいたことを悔いる人が起こるのではないでしょうか。人々がこの世の神々から解放されるように、福音宣教の働きが推し進められますように祈ろうではありませんか。