信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです(ヘブル人への手紙12章2節ー3節)

1.使徒の働き3章1節ー16節
2.ローマ人への手紙12章2節ー3節
3.コリント人への手紙第一2章1節ー5節
4.テモテへの手紙第二2章1節ー8節

今日の聖句が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」勧めてから、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせず十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。」と具体的にキリスト者が考えるべき点を離されてから、その理由として「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と語っています。パウロはキリスト者でありながら世に人々と同じように、キリストに生きるのではなく「私」すなわち、肉の思いに生きていたコリントの教会に行った時(コリント人への手紙第一3章1節ー4節)「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおのいていました。」と告白するとともに、その解決策として今日の聖句が語っているように、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことを決意されただけでなく(コリント人への手紙第一2章2節ー3節)、教会の問題を抱えていたテモテにも「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と励ましてから「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。」と勧めています。ペテロも人々に明石されたように信仰はキリストによって与えらていることを忘れずに(使徒の働き3章16節)、高ぶったり卑下したりせず、慎み深い考え方をするようにしようではありませんか。