人に思慮があれば、怒りを遅くする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。(箴言19章11節)

1.サムエル記第二16章5節ー12節及び 19章16節ー23節
2.エペソ人への手紙4章26節ー32節
3.コロサイ人への手紙3章2節ー15節
4.ヤコブの手紙1章12節ー22節

ダビデはサウルの一族のひとりシムイかのろわれ、真実でないことばをもって悪口を言われましたが、今日の聖句が「人に思慮があれば、怒りを遅くする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」と語っているように、彼は怒ることなくシムイを殺そうと言ったアビシャイと家来たちに「ほっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼の呪いに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」と、主にお任せしたのでした。その結果、ダビデがエルサレムに戻る時、シムイはダビデに謝罪したのでした。イエス様は弟子たちに「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみなそうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。(ヨハネの福音書16章2節ー3節)」と仰せられたように、パリサイ人として自分の義に生きていた時のパウロは神に対して熱心であっても激しい怒りに燃えてキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となったパウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と警告するとともに「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」と勧める人に変えられたのは彼自身が赦しを体験したからではないでしょうか。今日のみことばに生きるために、主は全てご存じであること、全生涯の罪が赦されていることを忘れないようにしようではありませんか。