私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネの福音書1章16節ー17節)

1.サムエル記第二7章8節ー16節
2.詩篇103篇1節ー14節
3.ローマ人への手紙5章17節ー21節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節

ヘブル人への手紙10章1節ー4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」と語っていますが、バプテスマのヨハネはイエス様について「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と証言されたのでした。人は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていますが(ヘブル人への手紙9章27節)、人は一生の間、さまざまな間違いを、時には同じ間違いを繰り返してしまうのではないでしょうか。ですから箴言20章9節は「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。」と、絶望的な状態を語っていますが、箴言16章6節は「恵みとまことによって、咎は贖われる。」と、解決の道が、希望があることを語っています。神がダビデに私たちが罪を犯しても主の恵みは取り去られることがない、と約束されたように(サムエル記第二7章15節)、今日の聖句は「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」と、咎が贖われるということがイエス様によって現実のものとなったのでした。罪意識が生じる度に、パウロが「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあるれました。(ローマ人への手紙5章20節)」と語っているように、十字架の恵みを思い起こし、主をほめたたえながら歩もうではありませんか。