もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな、神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(詩篇66篇18節ー20節)

1.サムエル記第二7章8節ー16節
2. ルカの福音書18章9節ー14節
3.ローマ人への手紙10章1節ー13節
4.ヤコブの手紙4章1節ー10節

イエス様が泥を塗って生まれながら盲目の方の目を癒やされたのは安息日であったためにパリサイ人の間でイエス様について神から出たのかどうかの論争が起こったのですが、盲目であった方は「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。(ヨハネの福音書9章1節ー33節)」と言われたことには一理ありますが、イエス様は自分を義人と自任し、他の人々を見下しているパリサイ人から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈られた取税人を神は義人と認めてくださることを話されました(ルカの福音書18章9節ー14節)。主はパリサイ人の祈りも取税人の祈りも聞いておられますが、高ぶる者の祈りはお好きでないようです。ですからダビデは「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな、神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」と語っているのではないでしょうか。恵みとまことに満ちておられる主は私たちの祈りに心を留めてくださることを、ダビデに約束されたように恵みは決して取り去られることはないことを(サムエル記第二7章15節)忘れないようにしようではありませんか。