神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節ー34節)

1.ルカの福音書18章9節ー14節
2.ローマ人への手紙3章19節ー26節
3.ローマ人への手紙4章25節ー5章1節
4.ピリピ人への手紙3章2節ー9節 

パウロはキリスト者になる前は「私は八日目に割礼を受け、イスラエルの民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と語っているように、キリストを信じる信仰に基づいて神から与えられる神の義を知らなかったがゆえにキリスト者を迫害していたのですが、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語っているように、神の義は十字架で流された血潮と復活によるものであり、行いによるものではなく恵みによるものであるために、キリスト者であってもダビデのようにさまざまな過ちを犯してしまいますが、人の評価によって無効にされてしまうようなものではないことを語っているのではないでしょうか。だれにでも弱点がありますし、ヤコブが「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです(ヤコブの手紙3章2節)」と語っているように、ひとり残らず、人はみな後悔するようなことを抱えながら生きているのではないでしょうか。パウロが「互いに忍び合い、だれかほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)」と勧めているように、イエス様にとりなしていただいている存在であることを忘れずに互いに赦し合いながら生きようではありませんか。