心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(箴言22章11節)

1.エペソ人への手紙4章17節ー32節
2.テトスへの手紙1章1章15節ー16節
3.ヘブル人への手紙10章14節ー22節
4.ペテロの手紙第一1章18節ー22節 

パリサイ人であった時のパウロは神に対して熱心でも律法による自分の義に生き、激しい怒りに燃えてキリスト者を罰したり、強いて御名をけがすことばを言わせようとしたりしてエルサレムにおいてだけでなく国外の町々にまでキリスト者を追跡していたのですが、イエス様から声をかけられキリスト者となったパウロは神の恵みとキリスト・イエスにある神の愛を知る者となり「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と話されてから「お互い親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい。(エペソ人への手紙4章26節ー27節及び32節)」と、「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください。そのような者は、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いの計画の実現をもたらすものではありません。この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。(テモテへの手紙第一1章4節ー5節)」と勧める人に変えられたのでした。「王の王、主の主(黙示録19章16節)」であられるイエス様は、だれが一番偉いかなどと論じていた弟子たちであるにもかかわらず(マルコの福音書9章34節)彼らを友と呼ばれたのは(ヨハネの福音書15章15節)、やがて聖霊に満たされ「心のきよさを愛し、優しく話をする者」に変えられることをご存知であったからではないでしょうか。「心のきよさを愛し、優しく話をする者」として生きるために王の王であるイエス様から友と呼ばれる立場にあることを、十字架で流された血によって邪悪な良心をきよめられていることを忘れずに(ヘブル人への手紙10章22節)、パウロが勧めているようにキリスト・イエスにある神の愛に生きるために互いに赦し合って生きようではありませんか。