最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。(ピリピ人への手紙3章1節)
1.ネヘミヤ記8章1節ー12節
2.詩編33篇1節ー5節
3.イザヤ書61章10節ー11節
4.ハバクク書3章13節ー18節
通常、物事が自分の思い通りになったり、何か嬉しいことがあると喜ぶことができますが、それらの喜びの根拠は肉の思いや感情によるもので、状況が一変すると感情も変化して喜びが悲しみや絶望、時には怒りや憎しみなどに変わってしまうのではないでしょうか。ところで、パウロは迫害に会い囚われの身にありながら人々に今日の聖句にあるように「主にあって喜びなさい。」と勧めていますが、彼自身の置かれている状況を思うなら、キリスト者の喜びは、状況に左右されないものであるべきことをも示唆しているのではないでしょうか。彼は主にあって喜ぶべき理由について「あなたがたの安全のためにもなることです」と語ってから、「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。」と、エペソの教会の長老たちに「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろ曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。」と、異端に巻き込まれないように警告しています。行い中心の宗教家ではなく、恵みによって救われている信仰者として主にあって喜ぶ秘訣は、主がどのような方かを、イエス様によってどれほどの祝福が与えられているかを思うことにあるのではないでしょうか。キリストにあって義と認められ、神の子とされ、贖われているがゆえに罪に定められることがなく、何ものをもってしても、私たちの失敗さえもキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことができないという事実を思って主にあっていつも喜ぶようにしようではありませんか。