義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(詩編4篇5節)
1.箴言3章3節ー7節
2.マタイの福音書6章24節ー33節
3.ローマ人への手紙3章19節ー28節
4.ローマ人への手紙9章24節ー10章4節
律法学者やパリサイ人たちの義はキリストを信じる信仰によって与えられる神から与えらる義(ピリピ人への手紙3章2節ー9節)ではなく、「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と、神に感謝していますが、自分の義に生き、自分の罪がわからず、他の人々を見下すようなことをするため、イエス様は、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と申し上げた取税人の方が義と認められることを語ったのでした(ルカの福音書18章9節ー14節)。ですから、イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章20節)」と仰せられたのでした。サウロとも呼ばれていたパウロは自分の義に生きていた時には、自分の考えでキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへの途上でイエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのはあなたにとって痛いことだ。(使徒の働き26章14節)」と声をかけられ、キリスト者となった彼はもはや自分の義ではなく信仰によって与えられた神の義に生き、主に拠り頼んで生きる者となったのでした。ソロモンは「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。(伝道者の書7章16節 口語訳)」と助言しています。私たちはパリサイ人や律法学者のように自分こそ正しいと思うような自分の義に生きてしまいがちですが、今日の聖句が「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」と勧めているように、義のいけにえ、すなわち自分こそ正しいという思いに固執して自分の考えや思いを押し通そうとせず、義なる方であり、人の心や思いさえご存じであるだけでなく、すべてのことを益としてくださる主を信頼して生きようではありませんか。