わたしは近くにいれば、神なのか。ー主の御告げー遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。ー主の御告げー天にも地にも、わたしは満ちているではないか。ー主の御告げー(エレミヤ書23章23節ー24節)
1.詩篇16篇6節ー11節
2.詩篇139篇1節ー16節
3.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
4.ペテロの手紙第一3章18節ー22節
イエス様は金曜日に十字架にかけられ殺され墓に葬られたのでしたが、祭司長、パリサイ人たちは「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と、民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合よりも、もっとひどいことになります。」と、ピラトに申し上げたので、ピラトが「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるが良い」と言われたので、墓の入り口をふさいでいた石に封印をするとともに番兵をおいたのですが、興味深いことに祭司長やパリサイ人たちはイエス様を信じていませんでしたが、イエス様のことばを信じていたのでした。ところで、146篇4節は「霊が出て行くと、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。」と語っていますが、ペテロが語っているように「キリストも一度罪のために死なれましたが、正しい方が悪い人々の身代わりになったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです(ペテロの手紙第一3章18節ー19節)。と、ダビデが「私がよみに床をもうけても、そこにあなたはおられます。(詩篇139篇8節)」と語っているように、神のご計画は死をもってしても滅びうせることがないばかりでなく、今日の聖句が「天にも地にも、わたしは満ちている」と仰せられたように、主は私たちがどこにいようと常にともにいてくださる偏在の方であることを忘れずに主を信頼して生きようではありませんか。