みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119篇130節)

1.詩篇73篇1節ー26節
2. 伝道者の書12章9節ー14節
3. エペソ人への手紙1章17節ー21節
4.テモテへの手紙第一1章12節ー17節

今日の聖句の第3版は「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」と、「わきまえのない者」を口語訳は「無学な者に知恵を与えます。」と、新共同訳は「無知な者にも理解を与えます。」と、2017年訳は「浅はかな者に悟りを与えます。」と、「わきまえのない者」「無学な者」「無知な者」「浅はかな者」に「悟り」が、「知恵」が「理解」が与えられると語っていますが、それはみことばによって、ヨハネの福音書1章4節及び9節ー11節が「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」と語っているように、イエス様によって与えられることを語っているのではないでしょうか。知能指数がどんなに高くても神を認めないなら、「わきまえのない者」「無学な者」「無知な者」「浅はかな者」になってしまうのではないでしょうか。パウロはガマリエルのもとで律法を学び、今で言えばエリートで、自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてキリスト者を教会を迫害していたのですが、迫害するために向かっていたダマスコの途上で天からの光を見ただけでなくイエス様から声をかけられ、聖霊に満たされただけでなく目からうろこが落ち、悟りが与えられ「イエスは神の子である」と宣べ伝える者となられただけでなく(使徒の働き9章20節)、この世の知恵は神を知ることができないこと、召された者にとってキリストは神の力、神の知恵であることを語るとともに(コリンと人への手紙第一1章21節及び24節)、パウロが勧めているように、この世にあって世の光として輝くために、キリストにあって(コロサイ人への手紙2章7節)、いのちのことばをしっかり握って(ピリピ人への手紙2章16節)生きるようにしようではありませんか。

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