私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二18節)

1.ローマ人への手紙8章18節ー24節
2. コリント人への手紙第一13章1節ー13節
3.エペソ人への手紙1章17節ー19節
4.ヘブル人への手紙11章1節ー6節

 

パウロは「たとい、私が人の異言や御使いの異言を話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物をもっており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」と語ってから愛の特質をるとともに「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と、一時的なものではなく永遠のものであることを語っているように、彼が語った愛はギリシャ語のフィレオ(友情)でもストルケ(親子の愛)でもなくアガペ、すなわち神の愛でした。ところで、ヨハネは神は愛であることを(ヨハネの手紙第一4章8節)、パウロは、どんなものをもってしてもキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないことを語っています(ローマ人への手紙8章38節ー39節)。ところで、ヨハネの福音書1章18節が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と語っているように、人の手によるようなこの世の神々ではなく永遠の神は霊であり見ることができないばかりか、十字架で神の愛を示されたイエス様も昇天され、父なる神の右の座に座しておられるので見ることができませんか、今日の聖句が「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と語っているように、キリスト者は死後、後悔するような行いやことばの過ちを神に裁かれることなく、栄光の姿に変えられ神を見ること、神とともに永遠に生きることができる永遠のいのちが与えられているという信仰と希望が与えられていることを喜んで生きようではありませんか。