主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ人への手紙13章14節)

1.ガラテヤ人への手紙3章26節ー27節
2.エペソ人への手紙4章16節ー24節
3.エペソ人への手紙6章10節ー17節
4.ヨハネの手紙第一2章15節ー16節

イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことはできません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。( ヨハネの福音書15章3節ー5節)」とイエス様はキリスト者が実を結ぶ人生を歩んで欲しいこと語っています。パウロはまず「私は言います。御霊によって歩みなさい。そすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と語ってから、肉の行いがどのようなものであるのかを、御霊の実がどのようなものであるのかを語ってから「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ人への手紙5章16節、19節ー24節)」と、ヘブル人への手紙12章11節が「平安な義の実」と語っているように人の力や知恵では結ぶことのできない実について語っています。エバはサタンの誘惑に屈して罪を犯してしましたので、パウロは「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。」と勧めてから「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音、信仰の大楯、救いのかぶと」と語っていますが、全てイエス様に関わるものであることであり、それは今日の聖句「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」に通じているのではないでしょうか。御霊の実を、平安な義の実をつけるために神の子とされていること、キリストを着る、すなわちキリストのものとされていることを忘れないようにしようではありませんか。