だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5章17節)

1.マタイの福音書11章25節ー30節
2.ヨハネの福音書7章37節ー39節
3.ヤコブの手紙1章5節ー8節
4.ペテロの手紙第二3章3節ー9節

昨夜NHKのニュースでプーチン政権に対峙していたナワリヌイ氏が突然亡くなられた報道に驚きました。多くの人々は不平等さに悩まされ、苦しみ、平等を求めて戦っている状況を思わされたからでしょうか、今日の聖句「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」の「だれでも」ということばが心に響きました。イエス様は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章43節ー45節)」と神は人をかたより見ない方であることを語られましたし、イエス様もパリサイ人や律法学者が見下げているような取税人を見下げるようなことはなさらなかったのでした。本当の意味で神を、イエス様を知る者になられたパウロは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでいます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(テモテへの手紙第一2章4節ー5節)」と語っています。人には記憶力があるので、過去の過ちに悩まされるようなことがありますが、今日の聖句「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」を、十字架の恵みを思い起こし、過去はすでに処理され、日々主が内なる人を新たにして下さることを、どんなことがあってもキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものがないことを感謝しようではありませんか。