信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯しているなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブの手紙5章15節ー16節)

1.ヨハネの福音書9章24節ー33節
2.ヨハネの福音書14章12節ー14節
3. 使徒の働き12章1節ー17節
4.エペソ人への手紙1章17節ー19節 

イエス様はいつも祈るべきであり、失望してはならない事をたとえ話をもって話されてから自分を義人だと自任し、他の人々を見下げている者たちに対して」神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と自分を誇ったパリサイ人ではなく、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈られた取税人を神は義人と認められたことをたとえ話をもって教えてくださっているように、義人とは、完璧な人ではなく、キリストを信じる信仰に基づいた神から与えられる神の義を持つ人のことであることがわかります。今日の聖句は、信仰による祈りがもたらすもの、義人の祈りの力について語るとともに、祈る時に神との関係を吟味する必要があることをも語っています。なぜなら、イザヤ書59章1節ー2節が「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪は御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」と語っていがゆえであり、私たちは義人とされているにもかかわらず、多くの点で失敗をする者ですが、恵みの座がある事を忘れずに、正直に心のうちを申しげるとともに、お互いの間に何かわだかまりがあるようなら、パウロが「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」と勧めているように、互いに赦し合い、心をひとつに、主を信頼し、主のお働きに期待して祈りを捧げるようにしようではありませんか。