恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。(箴言16章6節)

1.伝道者の書12章11節ー14節
2.ヨハネの福音書1章14節ー17節
3.コリント人への手紙第二5章7節ー11節
4.エペソ人への手紙2章1節ー9節

人が死を恐れる要因にはヘブル人への手紙9章27節が「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」と語っているように人は死後、神に裁かれることを潜在的に知っているからではないでしょうか。人には良心が与えられているためにどなたも良心のかしゃくを受けて後悔するようなことを抱えながら、忘れようと思っても記憶力が与えられているために何度も過去の過ちに悩まされてしまうようなことが多々あるのではないでしょうか。罪や咎には刑罰が伴うものですのです。箴言20章9節は「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』ということができよう。」と問いかけていますが、今日の聖句は「恵みとまことによって、咎は贖われる。」と答えを与えてくださっていますが、それはイザヤ書53章5節ー6節が「彼は(イエス様は)、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい。おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちすべての咎を彼に負わせた。」と十字架の死の意味を語り、ヨハネの福音書1章14節及び16節ー17節は、恵みとまことに満ちておられ、恵みとまことを実現してくださったのはイエス様であることを、イエス様を信じるなら、咎が贖われているだけでなく、恵みの上にさらに恵みを受けるものであることを語っています。今日の聖句の後半に「主を恐れることによって、人は悪を離れる。」と、悪を離れる秘訣は、「主を恐れる」とは人の行為だけでなく、何を考え、何を思っているか全てご存知な偉大な神であることを思うとともに、私たちが受けるべき罰を十字架で負ってくださった恵みを思って畏敬の念をもつことであり、パウロのように主が喜ばれることを願って生きることにあるのではないでしょうか(コリント人への手紙第二5章9節ー11節)。