さて、祭りに終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になって受ける聖霊のことを言われたのである。(ヨハネの福音書7章37節ー39節)

1.イザヤ書55章1節ー5節
2.ヨハネの福音書4章4節ー14節
3.ヨハネの福音書6章32節ー35節
4.黙示録22章1節ー2節

この度の能登半島の地震によって被災された方が「生きるために一番必要なのは水です」とインタビュアーに話されていたことを聞きながら、今日の聖句「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になって受ける聖霊のことを言われたのである。」を思わされました。今日の聖句の「祭りの終わりの大いなる日」とは仮庵の祭りの最終日である七日目のことで,それまでの6日間は祭司たちがたいまつを掲げ、手に楽器を持って賛美と踊りをしながら、黄金の器にシロアムの池で汲んだ水を入れて神殿にまで運び上げて祭壇の周りを一度回って水を注ぎましたが、七日目にはエリコの城壁を7回回ったように、祭壇の周りを7回回って祭壇に水を注いだのですが、その最終日に、イエス様は飲み水では潤すこのとできない心の渇きを満たすことができることを、しかもイエス様が与えてくださる生ける水は川のようになって流れ出る、すなわち人々をも潤す力があることを語ると共に、それは聖霊に働きによるものであることを語っています。すべてのキリスト者には聖霊が与えられているので生ける水は与えられているのですが、心の飢え渇きを覚えるような時には、聖霊を悲しませたり(エペソ人への手紙4章30節)聖霊を消している(テサロニケへの手紙第一5章19節)、すなわち肉の思いに支配され、救われていることを忘れ、キリスト・イエスにあって神が望んでおられるようなすべての事について感謝することを(テサロニケへの手紙第一5章19節)忘れているのではないでしょうか。私たちの弱さをご存知でとりなしていてくださる恵みとあわれみに満ちておられ、心を潤してくださる主に立ち返ると共に、人は災害にあって初めて水の大切さを痛感されたように、普段は霊的な水に関して人々は無関心かもしれませんが、人生の虚しさを覚える時、生ける水があることを、イエス様を見ることができるように祈ろうではありませんか。