わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ書43章7節)

1.ヨハネの福音書17章13節ー22節
2.コリント人への手紙第二3章6節ー18節
3.エペソ人への手紙1章3節ー14節
4.ペテロの手紙第一5章7節ー10節

世の人々は自分の永光を求めて努力しますが、栄光を手に入れることができる人は限られた人々であり、栄光を手にしてもその栄光は時が経つにつれ思い出となり、かえって栄光に満ちた時を懐かしんで過去に執着してしまうような生き方をしてしまう可能性があるのではないでしょうか。今日のせ聖句は「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と、驚くべきことに、主の名で呼ばれる、すなわちすべてのキリスト者は主の栄光のために形造られている、と語っていますが、それはパウロが「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)」と語っているようにイエス様を信じることによって新しく造られ者であり、その栄光はイエス様が「またわたしは、あなたがわたしにくださった栄光を、彼らに与えました。(ヨハネの福音書17章22節)」と仰せられたように、人の努力ではなく恵みによって神の栄光が与えられているのです。しかも、その栄光は、栄光から栄光へと輝きを増すものであり(コリント人への手紙第二3章18節)永遠の栄光であることを三度イエス様を知らないと言ったペテロは語っています(ペテロの手紙第一5章10節)。この世が与えることのできない永遠の栄光を与えられていることを忘れずにこの世と調子を合わせて生きるのではなく主が喜ばれるように生きようではありませんか。