いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰られる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため。(イザヤ書57章15節)

1.イザヤ書53章7節ー12節
2.ルカの福音書18章9節ー14節
3.ピリピ人への手紙2章6節ー11節
4.ヘブル人への手紙5章7節ー10節

アンデレとピリポが幾人かのギリシャ人からイエス様にお会いしたいと頼まれたことをイエス様に話されると、イエス様はご自身がエルサレムで多くの苦しみを受け、殺されることをご存知で「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と言われ(ヨハネの福音書12章20節ー24節及び27節ー28節)、ゲッセマネにおいても悲しみもだえながら(マタイの福音書26章37節)地面にひれ伏して、もしできることならこの時が自分から過ぎ去るように祈られましたが父のみこころを成就するために(マルコの福音書14章35節ー36節)、人々からののしられたり、はずかしめられましたが、十字架の死に至るまで従われ死からよみがえられた後、昇天され父なる神の右に座されたのでした。イエス様ご自身が砕かれたのでした。今日の聖句が語っているように、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられるイエス様は(ピリピ人への手紙2章6節ー11節)、自分を義人と自任し他の人々を見下しているパリサイ人ではなく「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈られた取税人の方を神は義と認めることを話されたのでした(ルカの福音書18章9節ー14節)。パウロも自分のみじめさに悩みましたが、キリスト・イエスにある神の愛からなにものを持ってしても引き離されることはないという確信を持ったのでした。自分を見て情けなかったり、みじめに思うような時、十字架の主を思い起こすとともに、パウロと同じように神に愛されている存在であることを喜ぼうではありませんか。