主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩篇34篇8節)

1.サムエル記第一30章1節ー20節
2.ヨハネの福音書1章14節ー18節
3.ピリピ人への手紙2章6節ー16節
4.テモテへの手紙第二2章1節ー13節

姦淫の場で捕えられ民衆の真ん中に置かれた女性は、イエス様に律法学者とパリサイ人が「先生。この女は姦淫の場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」と問い続けている状況下においてイエス様が何と言われるか不安の中におられたのではないでしょうか。イエス様は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と驚くべき発言をされたのでした。そのことばを聞いた人々は年長者から始めて人々はその場から立ち去っただけでなく、「女よ」ではなく「婦人よ。」と呼びかけてから、悔いた心を喜ばれる方であり、人のうちにあるものをご存知なイエス様は(ヨハネの福音書2章25節)、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と恵みを与えられたのでした(ヨハネの福音書8章1節ー11節)。ダビデはサウルの手から逃げるために自分の考えでペリシテ人の陣地に逃げ込んだのですが、そのことによって思いもしなかった苦悩を味わうことになったのですが、そのような厳しい状況に追い込まれる度に主に立ち返り、主に助けを求めると、主は救われたのでした。主は罪人をさばくためではなく、救うために多くの苦しみを受けられただけでなくご自身をも捧げられたのでした。ですからパウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであリ、そのまま受け入れるに価するものです。(テモテへの手紙第一1章15節)」と、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できようか。(ローマ人への手紙8章31節)」と語っています。ダビデが「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」と語っているように恵みとまことに満ちておられる主のすばらしさを忘れずに、主を信頼し、私たち自身を主に委ねて幸いな人生を歩もうではありませんか。