今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、思い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二4章17節ー18節)
1.ローマ人への手紙4章25節ー5章5節
2.ローマ人への手紙8章15節ー25節
3.ヘブル人への手紙11章1節ー6節
4.ペテロの手紙第一1章3節ー9節
イエス様は十字架にかけられる前に、まず、イエス様にあって平安を持つように仰せられてから、イエス様を信じているなら苦悩することがなくなることを約束したのではなく、かえってこの世にあっては患難があることを弟子たちに話されましたが、「しかし、勇敢でありなさい。」と患難に押しつぶされるのではなく立ち向かうように勧められ、その理由として「わたしはすでに世に勝ったのです。」と仰せられ、どんなことが起きてもご勝利する道があることを話されてから(ヨハネの福音書16章33節)、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」弟子たちのために、そしてすべてのキリスト者のために祈られたのでした(ヨハネの福音書17章15節及び20節)。イエス様は十字架にかけられる前に、鉛の玉の付いているむちで打たれ、頭にはいばらの冠がかぶせられていましたから血だらけであったのではないでしょうか、その上、人々からからつばをかけられたり、こぶしでなぐられたり、あざけられたり、イエス様の右と左に十字架につけられた二人からもののしられたのですが、そのような人々のためにイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのでした。その祈りを聞いてでしょうか、十字架にかけられた犯罪人のひとりは悪口を言っているもうひとりの犯罪人をたしなめてから「イエスさま。あなたの御国の位にお着きにあるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と約束されたのでした(ルカの福音書23章34節ー43節)。イエス様は十字架で殺されましたが、死からよみがえられ永遠のいのちを現され、人には勝利できない勝利をおさめたのでした。パウロが「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、思い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と語っているように、キリスト者には永遠のいのちが与えられ、永遠の栄光の中に招き入れられていることを(ペテロの手紙第一5章10節)忘れずに、目先のことに振りまわされずに永遠の視点から物事を見るようにしようではありませんか。