結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者の書12章13節ー14節)
1.ヨハネの福音書5章24節ー29節
2.コリント人への手紙第一4章4節ー5節
3.コリント人への手紙第二5章7節ー11節
4. ヘブル人への手紙9章24節ー28節
ソロモンは「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(伝道者の書2章3節)」と、この世や人の知恵ではなく神から与えらた知恵や判断力をもって「愚かさを身につける」すなわち、神を考慮しない世の人々と同じ立場に立って、この世のあらゆる分野を探索した結果「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」と、人にとって、神を恐れる、すなわち神を知り、神がどんな偉大な方であるかをしっかり受け止め、みことばで生きることが本来人が生きるべき道であることを語るとともに、その理由を「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」と挙げています。イエス様は律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら天の御国に入ることができないことを語りました。パウロが「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。(コリント人への手紙第二5章10節ー11節)」と語っているのは、パリサイ人として自分の義に生きていたパウロもキリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知るとともに、「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章5節)」と、イエス様を信じるなら、全生涯の罪が赦されているために、罪に対する有罪判決が出されるのではなく、称賛が届くという恵みを知ったからではないでしょうか。人々が罪や死の解決を与えてくださる恵みとまことに満ちておられる主を知ることができるように祈ろうではありませんか。