神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者はあわてることがない。(イザヤ書28章16節)

1.詩篇118篇15節ー24節 
2.コリント人への手紙第一3章10節ー15節
3.ヘブル人への手紙5章1節ー10節
4.ペテロの手紙第一2章3節ー11節

イエス様はサタンの試みにあわれただけでなく、人類を救うために来られたにも関わらず、ヘブル人への手紙5章7節が「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救う方に向かって、大きな叫び声と涙をとを持っていた祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と語っているように、祭司長たちや民の長老たちにねたまれて十字架の刑に服されたのでした。ペテロはイエス様について「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。(ペテロの手紙第一2章4節)」と語っていますし、パウロは「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはキリスト・イエスです。(コリント人への手紙第一3章11節)」と語っています。ですから今日の聖句「神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者はあわてることがない。」は、イエス様のことを語っているのではないでしょうか。キリスト者となったパウロは迫害され、信じられないほどの苦しみに会いましたが「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(コリント人への手紙第一11章1節)」と、、すべてのキリスト者がパウロのように十字架の主を、死からよみがえられたイエス様のことを思って生きることを願っています。今日の聖句を心に据えて、どんな時にも全てのことをご存じであるだけでなく、すべてのことを益としてくださる主を信頼して生きるようにしようではありませんか。