信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル人への手紙12章2節)

1.マタイの福音書14章14節ー33節
2.詩篇16篇8節ー11節(使徒の働き2章25節)
3.コロサイ人への手紙2章20節ー3 章3節
4.ペテロの手紙第一1章18節ー21節

湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえ、恐ろしさのあまり、叫び声を上げモーセは主から約束の地がどのような者であり、そこに住む住人たちがどのような者であるのかを教えられていたにも関わらず(出エジプト記3章8節)、「私たちより先に人を遣わそう。」という民の意見に同意しただけでなく(申命記1章22節)、12部族の族長を遣わすさいに目で見て判断するように告げた結果、彼らは約束の地について悪く言いふらしただけでなく、「私たちは、アナク人を見た。私たちは自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と言ったために、あれほどの奇蹟を体験しながらも民は神がどのような方なのかを忘れ、「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」などとモーセとアロンにつぶやき、「主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。」と助言したヨシュアとカレブを石で打ち殺そうしたのでした。湖の上を歩いて来られたイエス様に「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで(別訳:あなたのところまで)来い、とお命じになってください。」と申し上げたペテロにイエス様が「来なさい。」と言われたので、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に向かったのですが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言ったので、イエス様はすぐに手を伸ばして、つかんで「信仰の薄い人だ。なぜ疑うのか。」と言われたのでした(マタイの福音書14章26せつー31節)。何に目を留めるかによって生き方が違ってしまいます。イエス様から目を離すと、この世のさまざまなことに気を取られ、心の平安を失って、自分を敗北者のように思ってしまうのではないでしょうか。パウロはハバクク書2章4節を引用して「義人は信仰によって生きる」と語っています(ローマ人への手紙1章17節)。義人とされていることを忘れずに宗教家ではなく、信仰者として生きるために今日の聖句が「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と、勧めているように、モーセの世代のイスラエルの民と同じ過ちを犯さないように、恵みとまことに満ちておられるイエス様がいつもともにいてくださることを忘れずに生きるようにしようではありませんか。