私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二4章18節)
1.詩篇73篇1節ー28節
2.ローマ人への手紙8章18節ー39節
3.コリント人への手紙第一13章1節ー13節
4.ペテロの手紙第一1章3節ー9節
イエス様は「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」と申し上げたピリポに、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに見せてください』と言うのですか。」と仰せられてから「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と仰られたように、イエス様がどのような方であり、どのようなことをされたかによって神を見ることができるようにしてくださいました。神は愛であり、生ける希望を、宗教心ではなくイエス様を信じる信仰をも与えてくださったのです。人は永遠の愛を求めていますが、それは十字架によって明らかにされた神の愛以外にありませんし、人はさまざまな希望を抱いてそれがかなうように努力をしますが、その希望が叶えられることがありますが、叶えられないこともあり保証のないものであるとともに死によって消滅してしまうものですが、神が与えてくださる希望は生ける希望であり、イエス様を信じるすべての人に与えられるものであり、宗教心(生まれながら人に与えられている信じる力を自分や偉人や偶像に向ける)ではなく、イエス様は信仰を与えてくださるだけでなく完成してくださるのです。箴言29章25節が「人を恐れるとわなにかかる。しかし主を信頼する者は守られる。」と語っているように、約束の地を目の前にしながらアナク人を恐れ主と主の力を忘れたイスラエルの民のようにではなく、今日の聖句が「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と語っているように、主はいつもいてくださることを、パウロが確信しているように、どんなものをもってしても、どんなことがあってもキリスト・イエスにある神の愛から引き離されることはないことを忘れないようにしようではありませんか。