ユダの首長たちは心の中で言おう。エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主にある(ゼカリヤ書12章5節)
1.サムエル記第一17章32節ー47節
2.コリント人への手紙第一1章18節ー25節
3.コリント人への手紙第二12章1節ー10節
4.エペソ人への手紙1章14節ー19節
今日の聖句に「ユダの首長たち」と、首長とは集団や組織を統率する長を意味しますが、複数形で書かれてあることから、パウロが「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ人への手紙4章11節ー13節)」と語っているように、キリストご自身によって召された働き人たちであり、ユダの首長たちはいわゆる五つの務めに携わるキリスト者を意味し、エルサレムは永遠の御国を意味しますから「エルサレムの住民」とはキリスト者と見ることができるのではないでしょうか。「万軍の主」とはすべてを創造されただけでなく、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今のよばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれたキリストを意味するものであり、パウロが「召された者にとってキリストは神の力、神の知恵」と、キリスト者がキリストに生きる時、この世の人々が持っていない神の力や知恵に生きることができること語っています。サウルとサウルの兵士たちはゴリアテのことばを聞くと意気消沈して非常に恐れてしまいましたが、ダビデは万軍の主の御名をもって勝利されたのでした。キリスト者には神の力、神の知恵に生きるように、働き人には、素晴らしい働きをしたキリスト者に喜んで感謝しても、その良き働きも主が備えておられたものであり(エペソ人への手紙2章10節)、万軍の主の力であることを忘れずに人にではなく、主に栄光を帰すように勧めているのではないでしょうか。
