主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23篇1節)
1.サムエル記第一17章32節ー37節
2.ヨハネの福音書10章10節ー16節
3.ピリピ人への手紙4章8節ー13節
4.ヘブル人への手紙7章14 節ー28節
ダビデは主を「私の羊飼い」と表現されたのはサウル王に「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取っていくと、私はその後を追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかる時は、そのひげをつかんで打ち殺しています。このしもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。」と話されたように、ご自身が羊飼いの働きを体験され羊飼いの働きをよくご存知だったからであり、しかも「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、」と、その働きの背後に主のお働きを認めておられるからではないでしょうか(サムエル記第一17章34節ー37節)。羊飼いは昼も夜も羊の状態を心にかけて、羊を導き、守り、養います。イエス様はご自身を「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章11節)」と仰せられ、十字架の死をもって神の愛を示され、復活をもって、永遠のいのちを現され、イエス様を信じる者に、この世が与えることのできない豊かさを与えられたのでした。イスラエルの民はエジプトから贖い出され、主が約束されたイスラエルの地に入るためには、荒野を旅する必要がありました。主は荒野において昼は雲のうちに、夜は火のうちにあって、イスラエルの民が宿営する場所を捜し導かれただけでなく、水を与え、マナを与え、民が民と混ざってきた人々と同調して肉が食べたいと文句を言うと肉を与え、民が生き抜くための必要を満たされたのでした。パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙第一6章6節)」と語っています。欲は際限なく、心を満たすことはできません。欲に支配されないように、この世が与えることのできない罪の赦し、永遠のいのち、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されていることを(エペソ人への手紙1章3節)、今与えられている信仰に立って、必要なものは与えてくださる主であることを忘れずに、ダビデのように「乏しいことはない」という世界に生きようではありませんか。
