人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコの福音書10章45節)

1.ネヘミヤ記5章1節ー15節
2.マタイの福音書20章20節ー28節
3.ヨハネの福音書13章1節ー15節
4.ヤコブの手紙5章1節ー11節 

だれが一番偉いかなどと論議したり、ヤコブとヨハネがイエス様に「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と願ったことを聞いた他の弟子たちは腹をたてたりしていた弟子たちに、イエス様は彼らに「あなた方も知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と言われてから「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」と仰せられたのですが、その根底には神の愛があったのでした(ヨハネの福音書3章16節)。聖霊に満たされ神の愛を見たヨハネは「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです(ヨハネの手紙第一4章9節ー10節)」と勧める人に変えられたのでした。ネヘミヤは前任の総督たちのようではなく、民と共に働き、民に負担をかけないように生きられた秘訣は、エルサレムの悲惨な状況を聞いて五ヶ月間も祈り、アルタシャスタ王から「何を願うのか」と聞かれると、祈ってから願いも申し上げたように、常に神を考慮していたからでした(ネヘミヤ記1章1節ー2章4節及び5章14節ー15節)。パウロはキリストを見ならって生き(コリント人への手紙第一11章1節)「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ人への手紙6章6節ー7節)」と勧めています。