いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネの福音書6章63節)
1.ローマ人への手紙7章15節ー8章2節
2.コリント人への手紙第二3章6節ー18節
3.ガラテヤ人への手紙5章16節ー25節
4.テモテへの手紙第二3章12節ー17節
イエス様は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と仰られたように、イエス様ご自身、聖霊によってマリヤの胎に宿り、人としてこの世にご降誕されたのでした。聖霊に満たされたパウロは「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」と語ってから「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と心の葛藤を覚えながら答えを求めましたが、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と答えを見い出し(ローマ人への手紙7章18節、24節及び8章1節ー2節)、「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラテヤ人へ手紙5章16節)」と、勧めています。肉は、人間関係のみならず神との関係に支障をもたらします(ガラテヤ人への手紙5章19節ー21節、ローマ人へのて手紙8章7節)。肉は自分の考えに固執させ、みことに生きることを妨げるのですが、キリスト者には御霊が与えられているので、さまざまな考えや願いが肉からなのかどうか本当は自分でわかっているのではないでしょうか。ですから、真の戦いはサタンや悪霊ではなく自分の肉との戦いではないでしょうか。自分の思いではなく、聖書は神の御霊によるものですから(テモテへの手紙第二3章16節)、聖書にあるいのちのみことばをしっかり握って(ピリピ人への手紙2章16節)生きようではありませんか。