イエスは言われた。「人にはできなないことが、神にはできるのです。」(ルカの福音書18章27節)

1.出エジプト記15章1節ー19節
2.エレミヤ書32章17節ー18節
3. マタイの福音書19章16節ー26節
4.ルカの福音書1章26節ー38節 

キリスト者は神がおられることは知っておりますし、神がどのように偉大な方であり祈りをお聞きくださる方であることも知っていますが、主に祈り求める時の留意点をヤコブの手紙1章5節ー8節は「あなたがたの中に知恵のかけた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげく、咎めることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れうごく、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは二心のある人で、その歩む道の全てに安定を欠いた人です。」と語っています。主はモーセを用いられてエジプトでも多くの奇蹟を行われただけでなく、前方には紅海、後方からはエジプト軍が迫ってきて四面楚歌のような状態にある民を救うために、主は紅海の海水を二つに分けられ、イスラエルの民が対岸に渡り終えると海水を元に戻されたのでエジプト軍は一人残らず溺死したのでした。その状態を目にしたモーセと民は主の偉大さを誉めたたえたのですが(出エジプト記15章1節ー18節)、民に混じってきた者と民が一緒になって肉が食べたいと大声で泣いて言ったので、主はモーセに一ヶ月も吐き気を催すほど肉を与えることを告げたのですが、モーセはそのようなことは不可能なことのように主に申し上げ不信の罪を犯したのでした(民数記11章4節ー23節及び31節ー32節)。あのモーセでさえも自分の考えを先行させると神の偉大さを忘れ、神と神の力を小さくしてしまったように、私たちも願いや祈りをささげながらも神を小さくしてしまうことがあるのではないでしょうか。二心に陥らないように、不信の罪を犯さないように、イエス様が仰せられたみことば「神にはどんなことでもできます(マタイの福音書19章26節)。」「人にはできなないことが、神にはできるのです。」を忘れずに、願いや祈りをささげようではありませんか。