従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさい。(ペテロの手紙第一1章14節ー15節)
1.ヨハネの福音書17章6節ー20節
2.ガラテヤ人への手紙5章13節ー16節
3.ピリピ人への手紙2章3節ー11節
4.ヘブル人への手紙5章7節ー10節
イエス様は十字架にかけられる前「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いいたします。(ヨハネの福音書17章19節ー20節)」と、キリスト者のために祈られたのでした。ですから、ペテロは「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさい。」とキリスト者はキリストご自身が聖別されたように生きることを勧告しています。そのためにはイエス様がどのように生きられたのかを見る必要があります。イエス様は多くの苦しみを味あわれただけでなく、十字架の死にまでも従われて従順を学ばれたのですが、その秘訣は父なる神がどのような方なのかをご存知で、大きな叫び声と涙をもって祈や願いをささげられたのでした((ピリピ人への手紙2章8節、ヘブル人への手紙5章7節ー8節)。ペテロは欲望に生きている原因は「無知」と語っています。「無知」とはどんなに知恵や知識があっても、この世の神(偶像)に対して熱心でも、愛と恵みに満ちておられる真の神を、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らないことではないでしょうか(ローマ人への手紙10章1節ー3節、コリント人への手紙第一1章18節ー21節)。私たちも、イスラエルの民のように、神を知っているはずなのに、神がどんな偉大な方であるのかを忘れて思い悩み、不信感をもってしてしまうようなことがあるのではないでしょうか。ペテロは聖なる方にならって、と勧めています。父なる神を信頼して祈られたイエス様のように心のうちを正直に打ち明け、主を信頼して生きようではありませんか。