だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右に着き、しかも私たちのために、とりなしてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節ー34節)

1.ゼカリヤ書3章1節ー5節
2.コリント人への手紙第一4章4節ー5節
3.コロサイ人への手紙2章7節ー15節
4.ヘブル人への手紙10章1節ー18節

律法による自分の義に生きていた時には自分の考えでキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となったパウロはいつも善を行いたいと願っているにもかかわらず、それが実行できない自分のうちに罪があることを自覚し、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と苦悩しましたが、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることはない。」と確信した理由として「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、蘇られた方であるキリスト・イエスが、神の右に着き、しかも私たちのために、とりなしてくださるのです。」と語っています。神はサタンにヨブのことを「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留たか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」と言われたのですが、三人の友はヨブに臨んだ悲劇を知り、ヨブを慰めるために訪問したのですが、ヨブとわからないほど足の裏から頭のいただきまで悪性の腫物に覆われいたので、彼らはヨブと共にいましたが、ショックが大きかったのでしょう、声をかけることも、主に祈ることもせず、ヨブと神との関係に疑問を抱き責めたのですが、長い沈黙の後、主は三人の友 にヨブにとりなしてもらうように要請したのでした(ヨブ記42章7節)。今日の聖句を心に据えて、自分に失望するようなことがあっても、十字架の恵みを忘れず、復活され昇天された主が罪に定められないように、信仰がなくならないようにとりなしていてくださることを感謝し、主を誉めたたえようではありませんか。