人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。(詩篇49篇20節)

1.詩篇73篇1節―24節
2.詩篇119篇129節―130節
3. 箴言9章10節
4.ダニエル書4章13節―37節

一般的に「悟る」という世界はさまざまな経験を通して分をわきまえることや修行をすることによって開かれるように思われますが、パウロは「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。(コリント人への手紙第一2章14節)」と、目に見えない霊的なことを、神がどのような方でるのかを悟るためにはこの世や人の知恵によっては得られないことを語っています。イエス様は聖霊(御霊)が来たらすべてのことを教え、私が話していたことを思い起こさせてくださることを話されましたし(ヨハネの福音書14章26節)、聖霊は知恵と悟りの霊であり思慮と力の霊(イザヤ書2節)と語っています。ですから、聖書は悟りは神によって与えられるものであることを語っています。アサフは不条理な世の中を見て苦悩したときの状態を「私の心が苦みに満ち 私の内なる思いが突き刺されたとき 私は愚かで考えもなくあなたの前で 獣のようでした。」と語るとともに「しかし 私は耐えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかんでくださいました。」と、たとえ神を考慮しないような状態であっても主はともにおられる恵みを告白しています。ところで、創世記に2章において人には神の息が吹き込まれましたが、他の被造物には息が吹きこかれていませんが人も獣も死にます。ですから今日の聖句「人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」は、この世の栄華、すなわちこの世の権力や財力を得てどんなに栄えていても、霊的なことが全くわからない獣のように罪や死の解決を、永遠のいのちを与えてくださる神をご存知ない人の状態を語っているのではないでしょうか。キリスト者には目には見えませんが天にあるすべての霊的祝福をもって祝福されていることを忘れないようにしようではありませんか。