わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。(マタイの福音書5章17節)
1.使徒の働き13章13節―43節
2.ローマ人への手紙3章19節―26節
3.ローマ人への手紙7章14節―8章3節
4.ローマ人への手紙9章30節―10章4節
イエス様が「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と語ったのは、イエス様が安息日に病人を癒されたことを、弟子たちが麦の穂を摘むのを見て「なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをしたのですか。」と言ったパリサイ人や律法学者たちから非難されたためでした。律法は神からモーセによって与えられましたが、それは神との関係や人間関係を守るためでした。確かに十戒の中に「安息に日を覚えて、これを聖なるものとせよ(出エジプト記20章8節)」とありますが、彼らはその解釈を安息日には何もしてはならないと考えていましたし、十戒を誤用してユダヤ人たちを苦しめていたのでした。ですから、イエス様は律法主義者に対して「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。(マルコの福音書2章27節―28節)」と仰せられたのでした。イエス様は律法は神のことばですから、律法を否定したのではなく、かえって成就すると仰せられ、行いによるのではなく恵みによって救いを得る道を開かれたのでした。パウロもそのことがわからずにキリスト者を迫害していましたが、恵みとまことを実現してくださったイエス様ご自身を(ヨハネの福音書1章14節及び16節ー17節)、十字架の恵みを知る者となられ神の義を知らない同胞のユダヤ人の救いのために祈る人になられたのでした。恵みによって救われることをご存知ない方々の救いのために祈ろうではありませんか。