どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ人への手紙15章13節)

1.詩篇4篇6節―8節
2.詩篇62篇5節―8節
3.ローマ人への手紙4章25節―5章5節
4.ペテロの手紙第一1章18節―21節

興味深い事に人はいつの間にか、すでに幼少期からさまざまな希望をもっていきています。その希望も成長するに従ってこの世との関わりの中ふくらんでいきますが、その希望がかなえられるかどうか保証がないので、不確かさの中でその希望がかなえられない場合のことを考えると心の平安を失ってしまうのではないでしょうか。主人が勤めていたオーケストラの二十年ほど前に定年退職された団長さんが「田舎では天才と言われ、芸大に受かった時には大喜びしたけれど、芸大に入学してみたらみんな上手で天才でもなんでもなくなった。」と笑いながら話してくださったことがありました。希望がかなって喜んでも、希望がかなった後の保証がないので、その喜びや満足感は一時的なもので終わってしまうだけでなく、時には希望がかなったにもかかわらず、自分が考えていたように事が運ばないと、もしかしたら道を間違えたかな、と後悔を招いてしまうことがあるでしょうし、どんな希望も死によって消滅してしまうものです。ところで、パウロは「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」と祈っています。キリスト者の希望の根源は神であり、どんな状況下にあっても、私たちが神の子であることをあかししてくださる聖霊によって「アバ、父」と、心の目を希望を与えてくださる神に向けるなら、神はすべてのことを働かせて益としてくださる方であることを思いこすとともに、主から与えられた信仰によって物事を見るなら、この世が与えることのできない喜びと平安に満たされ、主を信頼する心が与えられ、私たちの力や努力、この世の知恵によるものではなく、聖霊の力によってこころざしや希望が与えられるだけでなく、事を行わせる力も与えてくださいます(ピリピ人への手紙2章13節)。失望ではなく希望を与えてくださる神にダビデのように心のうちを正直に申し上げ主を信頼して生きようではありませんか(詩篇62篇5節―8節)。