互いに忍び合い、だれかほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)

1.マタイの福音書6章6節―14節
2.コリント人への手紙第二2章4節―11節
3.エペソ人への手紙4章26節―32節
4.コロサイ人への手紙2章8節ー14節

イエス様は霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすために十二弟子たちに汚れた霊どもを制する権威を与え、「天の御国が近づいた。」と宣べ伝えるようにイスラエルの民のもとに遣わされたのですが、彼らはだれが一番偉いかと論じ合ったり、ヤコブとヨハネが「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」とイエス様に願い出たのを聞いて腹を立てたような弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように(アガパオ=神の愛で愛したように)、あなたがたも互いに愛し合うこと(アガパオで愛し合うこと)、これがわたしの戒めです。」と仰せられてから「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛(神の愛)はだれも持っていません。」と断言されました。なぜなら、神の愛は聖霊によって心に注がれるものであるため(ローマ人への手紙5章5節)、福音書の時代はまだ聖霊が下っていなかったからでしょう。イエス様は十字架につけられながらも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と人々のためにとりなして祈られ「神の愛」は「自己犠牲であり、赦し」であること示されたのでした。今日の聖句は「互いに忍び合い、だれかほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」と、神の愛に生きる秘訣を語っています。イエス様は1万タラント(6000万デナリ=164384年分)の負債が赦されていることがわからない、というより信じられなかったのでしょう。少しでも返そうとしたのか100デナリ(100日分)の負債のある同僚に負債を返すように強要したために赦されていたはずの負債を払うことになったようってしまったしもべのようにではなく(マタイの福音書18章21節ー35節)、全生涯の罪が赦されているだけでなく神の御前からは完全に消滅していることを忘れずに、恵みを無駄にしないように互いに赦し合いながら生きようようではありませんか。