私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。(イザヤ書8章17節)

1.詩篇146篇1節―10節
2.ローマ人への手紙4章25節―5章5節
3.ペテロの手紙第一1章18節―21節
4.ペテロの手紙第一2章4節―12節

主はイザヤに「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。万軍の主、この方を聖なる方とし、この方を、あなたの恐れ、この方を、あなたのおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」と、民のことば、すなわち人のことばに惑わされないように、「あなたの恐れ」、すなわち畏敬の念をもって主がどんな偉大な方であるかを、「あなたのおののき」、すなわち神には不可能なことがないことを心に留めるなら、主の御臨在の中を歩むことを示されたのではないでしょうか。それゆえイザヤは「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」と告白しているのではないでしょうか。音楽の父と言われていますが、当時は作曲家というよりオルガン奏者として知られていたバッハの生涯を見ると、幼い頃に両親が亡くなり、演奏旅行に出かけた最中に奥さんが亡くなり、再婚しますが、10人の子どもが亡くなり、当時彼の作品は人々には理解できなかったので批判され、あまり受け入れられませんでした。その背景を考えると「主よ。人の望みの喜びよ」という曲が生まれたのは必然的なことのように思わされます。イエス様はご自身に与えられている使命をご存知でしたが、神であるとともに人として来られたので、十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と人として叫ばれたのですが、十字架をの死をもって贖いを完了され、復活をもって神の栄光をあらわされたのでした。神が御顔を隠しておられるかのように思われても、そこには大いなるご計画と勝利が用意されていたのでした。「どうして」と思われるようなことがあっても、イザヤのようにインマヌエル(主我と共にあり)の主を信頼し、期待し主に望みを託すようにしようではありませんか。