罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)

1.ルカの福音書22章31節―32節
2.ルカの福音書23章32節―34節
3.ヘブル人への手紙7章14節―26節

ヤコブの手紙3 2節は「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と、同章8―10節は「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」と完全な人がいないことを語っています。ですから、私たちは「あのようなことを言わなければよかった」とか「あのようなことをしなければよかった。」と後悔しパウロのように自分のみじめさを思い知らされるようなことが多々あるのではないでしょうか。しかし、パウロは「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と、自分のみじめさや罪からイエス様は救ってくださることを語っています。今日の聖句は「罪に定めようとするのはだれですか。」と問いかけてから「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と、キリスト者は自分で自分を罪に定めるよりも十字架にかけられたイエス様ではなく、死に勝利され恵みとまことを実現され天に座しておられ、私たちの信仰がなくならないようにも祈っていてくださる主を仰ぎ見て、主に感謝をささげるとともに恵みを無駄にしない生活をするようにしようではありませんか。