サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油を注がれた者だ」と思った。しかし、主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一16章6節―7節)

1.マタイの福音書23章25節―28節
2.ルカの福音書4章17節―26節
3.ヨハネの福音書2章23節―25節
4.使徒の働き13章16節―23節

ユダヤ人は神に選ばれた民ですから「わたしは彼を退けている」と言われても、エリアブも神の民のひとりですから、王としての油を注がれなくても神の民のひとりであることは明白であること抑えておくことが大切であり、サムエルであっても見かけで判断してしまうように人はとかく見た目で、人の心を読もうとしたり、判断したりしやすいのではないでしょうか。ところで箴言14章13節が「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」と、パウロが「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。」と語っているように、人には見せない顔を抱えながら人は生きているのではないでしょうか。しかし、主は私たちの心をご覧になっておられることをサムエルに告げられたのでした。ところで、パウロはサムエル記第一16章1節を引用されて「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。(使徒の働き13章22節、)」と語ったのですが、ダビデの生涯を見ると、サウルからねたまれていのちの危険にさらされたダビデは、自分のいのちを愛し、自分の考えで行動し、祭司アヒメレクを騙してパンや剣をいただきましたが、そのためにひとりの祭司がダビデのもとに逃げたひとりの祭司以外、アヒメレクをはじめ祭司たちがサウルの指示によって殺されてしまいましたし、バテシバの姦淫の罪を犯したのですが、常に主に立ち返られ悔い改めながら、神の恵みと愛の深さを知る者となったからではないでしょうか。心をご覧になっておられる恵みに満ちておられる主に心のうちを正直に注ぎ出して祈ろうではありませんか。