私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ人への手紙4章19節)
1.マタイの福音書7章7節―12節
2.ヨハネの福音書6章32節―35節
3. ヤコブの手紙1章5節―8節
4.ペテロの手紙第二1章1節―4節
神から「あなたに何を与えようか。願え。」と尋ねられたソロモンは、神を愛しておられたので、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょう。」と申し上げると、その願いは主のみこころにかなったものであったので、知恵の心と判断する心が与えられただけでなく、彼が願わなかった富や誉れも与えてくださることを主は約束されたのですが(列王記第一3章3節―14節)、神から与えられた知恵をもってこの世が与えることができるすべての分野を探索した結果(伝道者の書2章3節)、日の下、すなわち、この世が与えることができるのは空しさしかないことを悟られ(伝道者の書1章2節)、「結局のところ、もうすべてのが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12章13節)」と結論づけられたのでしたが、それはまさしく、神の国とその義をまず第一に求めて生きるならこの世の人々が求めているようなものは添えて与えられると仰せられたイエス様のことばに通じるのではないでしょうか。「富」というと、こ一般的には、の世の豊かさの象徴であるお金や財産を考えがちですが、キリスト・イエスを知ることによって律法による自分の義ではなく、神から与えられる神の義を知る者となったパウロは、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と、高ぶりをもたらすような、罪や死に対しては無力なこの世の富ではなくキリスト・イエスにある永遠の富が私たちに必要なものを与えてくださる、と語っています。欲しいものが、必要なものではない可能性があるのではないでしょうか。パウロのように、私の神は私に何が必要なのかを一番よく存知なだけでなく、必要なものを与えてくださる方であることを忘れないようにしようではりませんか。