もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(詩篇66篇18節―20節)
1.ルカの福音書18章9節―14節
2.ローマ人への手紙5章17節―21節
3.ペテロの手紙第二3章3節―9節
4.ヨハネの手紙第一1章5節―2章2節
パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵により、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ人への手紙3章23節―26節)」と、キリスト者はイエス様を信じることによって神の義をいただき、義人とされているのですが、それでも善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができないことを悩み、自分のうちに罪があることを、自分の惨めさを認めざるを得なかったパウロ(ローマ人への手紙7章18節―20節)のように悩み、自分の祈りは神に聞き入れていただけないのではないかと思うようなことがあるかもしれませんが、感謝なことにイエス様は自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているパリサイ人ではなく、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈られた取税人を神は義と認められたことを話されました(ルカの福音書18章9節―14節)。ダビデは多くの罪を犯しましたが、「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな、神、神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」と告白しています。ダビデに約束されたように(サムエル記第二7章15節)、神の恵みは、キリスト・イエスにある神の愛は、私たちの行いによって取り去られることはないことを、パウロのように三度祈っても彼の願いがかなえられなかったのは高ぶりから守られることであったことを心に据えて(コリント人への手紙第二12章7節―9節)、どんな祈りも神はお聞きくださいますが、祈りの結果は主にゆだね、すべてのことを働かせて益としてくださる主を誉めたたえて生きようではありませんか。